小説

カレーライス

手を繋いだ親子のイラスト

大切な人を失った池上修司(僕)は、告別式の後の夕方、息子のタケルを元気づけるために、夕食の買い物に連れ出します。お互いを気遣うがゆえに、どこかギクシャクしてしまう二人の会話。しかしこのとき、修司は大切なことを忘れています──。


カレーライス

告別式が終わると、故人のからだは燃やされて、姿形もなくなってしまう。柩が火葬炉に入っていく瞬間には、もう二度と会えなくなるということを、いやでも実感させられる。僕は子どもの頃から、あの瞬間が大嫌いだった。
蒸し暑く夏らしい日、家から車ですぐの斎場で告別式をあげた。昼間の屋外は、黒い衣装が体にへばりつくほど、じっとりと不快な天気だった。
夏至の直前だったので、親族と別れて自宅に帰り着いたころ、まだ頭上に青空を仰ぐことができた。
しんとした家の中と違って、家の外では、いつものように誰かの生活する音が聞こえていた。いつものように車が走り、いつものように誰かが笑う。僕たちの日常にどんなことが起こっても、この街の時間は正常に流れている。
ネクタイをつけたまま部屋のベッドに倒れ込んで、僕は深いため息をついた。
明日からの生活のことを考えると、どうしようもなく憂鬱になった。
もう会えない。
どこにたどり着くわけでもなく、その事実だけが、僕の頭の中を巡っていた。

二日前まで、この家には僕と妻と息子の三人が暮らしていた。
妻の色葉は、大学時代の学科の同級生だった。
息子のタケルは、今年の四月に小学校に入学したばかりだ。
緑の多い住宅街に家を建て、家族と一緒に暮らすことが、僕の夢だった。
この街で古いアパートの一室を借りたのは、大学を卒業し、就職したのとほとんど同じタイミングだった。それから二年経つ頃に色葉と結婚して、ほどなくしてタケルが生まれた。赤ん坊のタケルを連れて、大きな家に引っ越した。タケルはそのまま、この街で小学生になった。
最寄り駅に一番近い道には、銀杏の街路樹が続いていて、街角の花壇に植えられたツツジは、初夏に色鮮やかな花を咲かせる。
駅の改札を出たところは、黄色のタイル張りの広場になっていて、僕らと同じくらいの家族の姿をよく見かける。
本屋とカフェの入った小さな駅ビルには、都心まで出ずにのんびりしたい休日の、ささやかな楽しみが詰め込まれている。
生活に必要なものは、全てここで揃う。
都会の喧騒から離れた、静かな街。刺激は少ないけれど、生活に困ることはなく、電車で都心に出るのもたやすい。
この街で、色葉とタケルと三人で暮らした日々は、思えば幸せすぎるくらいの毎日だった。
そんな中で、突然訪れた別れの日。傷ついたのは、もちろん僕だけではない。
部屋のドアが開いたかと思うと、目を腫らしたタケルが現れて、僕のところに歩いてきた。頬も紅潮していて、何か言おうにも、言葉が出ないようすだった。
僕はベッドの縁に座って、タケルの体を抱き上げた。
「寂しいなあタケル。俺も寂しいよ……」
そう声をかけると、タケルは突如大声で泣き出した。涙が次から次へとあふれ出て、みるみるうちに頬を濡らしていく。タケルの泣きわめく声が、薄暗い部屋の壁に反射して響いた。
落胆している暇はない。
そう思った僕は、タケルの背中や頭を撫でて、優しい言葉をかけ続けた。
タケルはやがて落ち着いてきて、スンスン鼻を鳴らしながら、濁った瞳を下に向けた。溜息をついて、肩の力を抜いたら、小さな手で涙を拭った。
「……タケル、お出掛けしようか」
僕はタケルのようすを窺いながら声をかけた。タケルが顔を上げたので、
「家にいると悲しくなっちゃうからさ。駅のほうに行こう。ちょうど夜だし、夕ご飯の買い物しに行こう」
と続けた。タケルは急に子どもの顔をして、小さな目を輝かせた。
「うん」
そのときタケルの見せた笑顔は、母親に似た、優しい笑顔だった。明るい声の返事を聞くと、僕も少し安心した。

駅に行く手段はいくつかあったけれど、今日は歩いて行くことにした。車を運転する気にもならないし、バスの乗り過ごしに注意するのも面倒くさい。
駅までの道は住宅街である。車二台分くらいの幅の車道が真ん中を通っていて、その両外側に人一人分くらいの狭い歩道があって、そのまた外側にまだ新しい家が建ち並んでいる。
西から眩しい日の光が差して、空や家の壁の色が赤みを帯び始めていた。
僕はタケルの手を握った。
「タケルの手、冷たいなぁ」
しみじみと思ったことを口にした。フッと、隣で息を吹く音がした。
「あのね、手が冷たい人は、心があったかいんだって。ママが言ってたよ」
タケルはケラケラ笑いながら僕のほうを向いた。不意を突かれて、頬が熱くなった。僕のいちばん好きな顔だ。
「自分で言うなよ」
僕も笑いながら言った。あの理屈っぽい色葉が、絶対に信じていなさそうな迷信を口にするなんて。
「ママはタケルが大好きなんだな。……」
僕には色葉の気持ちがよくわかる。小さなことやくだらないことでも、タケルを褒めてやりたいのだ。
途中のコンビニに立ち寄って、バニラのアイスキャンディを買ってやった。外の蒸し暑さですぐに柔らかくなったアイスの先端を、タケルは口いっぱいに含んで食べた。
「おいしい」
口の周りにアイスクリームをつけながら、無邪気に頬を緩ませたタケル。さっきまでの涙が嘘みたいに、笑顔が輝いていた。
愛しさがこみ上げてくる。自分の息子ながら、ほんとうにかわいい。こんな幸せを感じられるのだから、痛い思いをしてタケルを生んでくれた色葉に、もっと感謝しようと思った。

タケルは最後の一口を頬張って、残った棒をアイスの包み紙でくるんだ。僕はそれを預かって、コンビニのビニール袋に入れた。
駅が近づくにつれて疲れてきた僕は、額から汗を流しながら歩いた。
「暑くないか?タケル」
「暑いよ。でも大丈夫」
夜が近づいているのに、昼間からそんなに気温が下がっていないように感じられた。西日が変わらず眩しい。タケルがやせ我慢しているようにも見えないので、僕は特に何もしないまま先へ進んだ。
重たくのしかかる六月の空気に力を奪われ、呼吸が浅くなっていく。冷房が恋しい。早く駅に着きたい。
「タケル、ほんとうに大丈夫か?俺けっこうしんどいんだけど」
「うん、平気」
僕が心配しても、タケルはびっくりするほどケロッとしていた。
「俺もアイス買えばよかったなぁ」
「パパ大丈夫?」
「大丈夫。もうすぐだから」
ああ、でも、そういえば。僕はふと思い出した。
「……タケルが生まれた日も、すごく暑かったんだよ」
タケルはちらっと目線だけ僕のほうへ向けて、また前を向き直った。そのときに見せた穏やかな表情は、やはり母親に似ていた。
「だって、オレ八月生まれだもん」
「……」
よみがえる。青い空に浮かぶ入道雲。街道沿いの大きな病院に行く途中、聞こえていたセミの声。
残暑の厳しい、八月の終わりの朝。僕は会社を休んで、色葉の出産に立ち会っていた。
涙を流しながら激しい痛みと闘う色葉を、僕は祈りながら見つめていた。かわいそうで、自分だったらと思うと怖くて、僕は唇を噛みしめていた。
「パパはオレが生まれた時、どこにいたの?」
「ママの隣にいたよ。何もできなかったけど……」
代わってやることもできない。無責任な言葉をかけることもできない。憂鬱だけれど、情けない顔を見せてはいけない。僕はどっしりと構えて、色葉を応援しなければならない。
西日が駅舎の陰に隠れて、視界が薄暗くなった。
あの日いちばん大変な思いをしたのは色葉なのに、僕はそのおかげで手に入れた幸せな生活を掻き乱してしまった。一週間前なら、きっともっと明るい顔で、この話をできた。
「ママ、痛かったよね、きっと」
タケルは急に声のトーンを落とした。今この話は不適切だったと、僕は反省した。
「……うん。痛そうだった」
そう答えたものの、心配になってタケルを見ると、ややうつむいて悲しげな目をしていた。
「……オレ、ママに謝らなきゃ」
タケルの声がかすかに震えているように聞こえた。泣いているのかと思った。
「タケル」
「……パパもごめんね。悲しい思いさせて」
「え?」
タケルは立ち止まった。
「何言ってるんだよ。お前は何も悪くないだろ」
僕はそう言いながら、タケルの手を引っ張った。

駅ビルに着くと、ひやりとした冷房の風が体に当たった。タケルと手を繋いで、自動ドアのすぐ内側から地下一階に続く階段を下りた。僕もタケルも黙っていた。何度タケルのほうに目をやっても、タケルは空虚な表情のまま、黙々と歩く。タケルに話しかけたいと思う反面、僕も疲れてしまっていて、かける言葉を思いつかなかった。
地下一階は全体がスーパーマーケットで、野菜の並んだコーナーに古めかしい広告の歌が流れていた。おどけたメロディーと歌詞。買い物カゴを手に取って、悪いムードを消し去ろうと、僕はなるべく明るい声を出した。
「何食べたい?好きなもの作ってやるよ」
タケルは顔を上げて、僕を見つめた。数秒の間があった。それから、んー、と唸りながら、タケルはグシャグシャと頭を掻いてみせた。タケルなりに、悲しさを振り切ろうとしているのだろうか。僕はそのようすを見ながら、そんなふうに考えた。
「オレ、カレーがいいなぁ……」
それにしては、タケルの返事はシンプルで、またはっきりしていた。どこか遠くを見ているようなぼんやりした表情と、なんだかつり合わなかった。
「……」
この時すでに、僕は違和感を覚え始めていた。今の状況なら当たり前なのかも知れないが、タケルはここに来る少し前から──タケルの生まれた日の話をしてから、あっちを見たりこっちを見たりして、まったく落ち着きがなくなっていた。話しかけると我に返って僕のことを見るけれど、上の空だ。
タケルだけではない。僕自身の感覚も、妙に鈍っていた。
店内はいつものように賑わっている。ザワザワと人の声がする。その声が、なぜか遠い。あの広告の歌も、明るいメロディーがやけに遠くてむなしい。耳の聞こえが悪くなっていた。
店の中を並んで歩き始めて、僕はもう一度聞き直した。
「カレーでいいの?」
「うん。何で?」
「一昨日食べたじゃん」
「え?」
「……」
「……」
タケルが再び足を止めた。僕も足を止めた。二人の間に静寂が訪れた。何もかもがうまくいかない。何気ない会話だったはずなのに、またしても重い空気になってしまった。
でも、そう思っていたのは、僕だけらしかった。
さっきまで暑くてうだっていた僕は、冷房の風に冷やされ、寒さで体を震わせていた。僕はそれを我慢しながら、タケルと目を合わせた。タケルはいかにも子どもらしい顔をして、不思議そうに首を傾げた。
「……何言ってるのパパ?オレ食べてないよ」
その瞬間、背筋が凍りついた。
「……」
寒い──体がどんどん冷えていく。僕は何も言えなかった。目を開けているのが精一杯で、言葉を出そうにも口が動かなかった。
ここは賑わう店の中。まわりには人の影がたくさんあるのに、誰の顔もよく見えない。ほかの客も店員も、逆光が差しているみたいに、暗く影になっている。目にも薄黒いフィルターがかかってしまったらしい。体じゅうが不自由だ。
何だろう、この違和感は。
どうしてこんなに、息苦しいのだろう。
頭の中がこんがらがってきた。ひとつひとつ紐解いていこうとすると、恐怖や焦りが混ざり合って暴れて、胸が痛くなった。
僕は二日前、夕食にカレーを作った。
でも、タケルはそれを食べなかった。
違和感の正体を掴んでくると、冷や汗が出てきた。僕は下を向いて、さらに記憶を辿った。
ここに来たのはなぜか?──タケルを元気づけるためだ。
タケルが落ち込んでいたのはなぜか?──告別式の直後なのだから、当たり前だ。
僕は、誰の告別式に出ていたのだろう……?

頭の中に、そのときの景色が広がった。僕は声が震えることに焦りながら、手のひらに持った挨拶の手紙を読んでいた。
霞む視界の向こうには、誰がいたのだろう。色葉の研究室の教授、僕の上司。仲のいい友達も来てくれた。それから、学校の先生、学童の先生、タケルの友達、そのお父さん、お母さん。昨日のお通夜も、今日の告別式も、親族でない参列者の、多くが子どもだった。
親族席には、誰が座っていたのだろう。僕には両親も兄弟もいない。そこにいたのは、色葉の両親と姉、姉の夫と、息子と娘。そして、見たことのないくらい泣いていた色葉。
正面に飾られた遺影は、色葉によく似た男の子だった。優しい目をして笑っている。……タケルだ。
柩で眠るタケルの周りに、花をたくさん敷きつめた。色葉は頬を真っ赤にして泣いていて、お母さんやお姉さんが、自分も悲しいのに、泣きながら色葉を慰めていた。タケルは穏やかに眠っているように見えたけれど、額に大きな傷があって、痛々しかった。
タケルは二日前、交通事故に遭って死んだ。
僕が夕食に作っていたカレーを、食べられなかった──。

涙ぐみながら目を覚ましたとき、辺りはもう暗くなっていた。僕はベッドに倒れ込んだ勢いで眠ってしまったらしい。脱ぎ捨てた上着も腕時計も、ベッドの上に放り出されていた。
タケルの部屋に入ると、買ったばかりの学習机の上に、笑顔の遺影が飾られていた。
写真になってしまったタケル。その手前に、タケルの顔を隠さぬように、小さな骨壺が置いてあった。
こうなってしまうと、今まで思い出したことのなかったような些細なことが、次々と頭の中に浮かんできた。急いでいて遊びに付き合えなかった時のことや、厳しいことを言って叱った時のこと。僕は僕なりに精一杯タケルに接してきたつもりだけれど、果たして僕のしてきたことは、正しいことだったのだろうか。甘やかした時はいい。そうでなかった時、小さなタケルの心を傷つけたりしなかっただろうか。そんなことが気になって、体がムズムズした。
僕は力無くその場に座り込んだ。部屋のドアが開いて、背後に人が立つ。振り向くと、目を腫らした色葉がそこにいた。
「寂しいわね」
抱きしめられると、涙があふれてきた。会社から帰ってきた時、はしゃぎながら僕の脚に巻きついてくるあの子は、もういない。耳元で色葉の嗚咽を聞きながら、僕は額に膝をつけて泣いた。


あとがき

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。

どんなに時間が経っても、定期的に思い出しては切なくなるような過去が、誰にでもあると思います。特に、子に先立たれることは親にとって何よりもつらい。著者に子はいませんが、よく耳にする言葉です。取り返しのつかない失敗や後悔。そうした解決しようのない苦しみと付き合いながら生きていくには、ただ忘れずに前を向いていくしかありません。タケルを失った二人は今どん底の状態ですが、きっとこれから顔を上げて歩き出していきます。

ところで、「僕には両親も兄弟もいない。」という一文があります。池上修司はもともとワケありな生い立ちです。しかし勉強ができて、道を踏み外すことなく進学・就職・結婚とスムーズにライフイベントを迎えられるような好運の持ち主でもあります。
彼の人生の一部だけを小説にするとどうしても暗いほうにフォーカスしてしまいますが、どちらかというと普段の修司は笑顔のほうが多いくらいです。イラストでの彼はだいたい幸せそうで、時に悲しい顔を見せます。どちらも本来通りの姿です。

技術的には、いろいろと工夫しています。
リズミカルに読めること。
著者の言葉でなく池上修司の言葉で書くこと。
また、この話は色葉が最後に少し出てくる以外、登場人物は修司とタケルだけです。完全に二人の世界で、街の人の生活音はほとんど聞こえてきません。タケルがすでに死んでいることに修司が気づく前から、死後の世界を想起させるような静けさに包まれた舞台となっています。
そして、なぜ修司はタケルがすでに死んでいることにしばらく気づかなかったのか。駅に着くまでのタケルの言動が、生きているとも死んでいるともとれないところがポイントです。